水 晶
望月 瞳子

 梁 艾丹は目の前の小刀をじっと見つめた。
 乾清宮はしんと静まりかえっている。見立ては終わったのだろう。この国は主を失い、神獣の守りを得た。人々の心に、安らぎと光がもたらされたのだ。
 ただひとりを除いて。
 艾丹は小刀を手に取った。柄に埋めこまれた水晶が冷たく光る。初めて宮殿に上がった日に、部屋の調度品や身の回りの物と共に道光帝より下された物だった。刃に映る自分の顔を見つめながら、彼女は声に出さずにつぶやいた。
(陛下。わたくしも、お供いたします)
 そのとき、房の扉ががたりと鳴った。紙張りの窓格子のむこうにぼんやりと人影が浮かびあがっている。艾丹はあわてて小刀を自分の喉元に押しあてた。だがそれは、喉を切りさこうとするより一瞬早く、房の中に飛びこんできた人影によってもぎとられた。
「止せ」
 小刀を奪い返そうとする艾丹の手を、人影が強く押さえる。しばらくあらがった末、小刀は二人の手を離れて床に落ち、硬い音をたてた。その音を耳にした瞬間、艾丹の全身から力が抜けた。倒れこむようにして、それまで腰掛けていた長椅子に身を投げ出し、両手で顔を覆う。喉の奥から、嗚咽がこみあげる。刀を奪った人影は、しばらくの間そのかたわらにじっとたたずんでいたが、やがてその場にひざまずき、艾丹の顔をのぞきこんだ。
「帰る前に、ちょっと挨拶していこうと思ったんだけど……寄ってよかったよ」
 その声は、天道式に現れた風水師だった。
「見立ては、終わったよ。玄太も、道光帝も、神獣玄武となった」
 艾丹は何も答えられなかった。黙って肩を震わせる艾丹に、風水師は言葉を続けた。
「……宿命だったんだ、二人とも。宿命から、逃れられなかった。誰が悪いわけでもない」
「……違うのです」
 艾丹は声をしぼりだした。
「わたくしはただ、陛下の御許に……」
 風水師の息をのむ気配があった。
「あんた、ひょっとして皇帝と……」
「陛下は…わたくしにとって、全てでした。初めてお目にかかった日から…」
 脳裏にあの日の情景がよみがえる。
 肩に、暖かい手が置かれるのを感じた。抑えきれぬ想いが、言葉となって唇から紡ぎだされた。
「わたくしの父は、先代の陛下に側近としてお仕えしていました。ところが、政敵であった大臣のたくらみにより、謀反の濡衣を着せられてしまったのです。実際のところ、謀反の心を抱いていたのはその大臣だったのですが、彼は言葉巧みに陛下に取り入り、邪魔な父を追い落としてしまいました。父は処刑され、わたくしは彼の慰み者となっていました。あの時、王太子として軍を率いておられた今の陛下が彼のたくらみをあばき、わたくしを救い出してくれなかったら、今のわたくしは生きてはおりません」
 荒々しい物音におびえ、暗い閨房の片隅で震えていたあの日。突然房の扉ががらりと開き、もう何月も目にしたことのなかった明るい光を背に、一人の男が立っていた。逆光で男の顔立ちはまるでわからなかったが、なぜか、その男が優しく微笑んでいることだけはわかった。
(心配はいらない。おまえを助けに来たのだ)
 男はそういうと、彼女を抱き上げた。それまでは吐き気がするほどおぞましいものにしか感じられなかった人肌のぬくもりが、今は何物にも代えがたく、恋しく感じられた。彼女は泣きながら、その男のたくましい胸にしがみついた。男の内懐におさめられた小刀の水晶の輝きが、彼女の心の暗がりを照らしだした。
「大臣は罪を裁かれ、父の汚名ははらされました。助け出されたわたくしは宮廷の女官に預けられて育ち、やがて王位を継がれた陛下に女官としてお仕えするように……そして、陛下のお情けをいただくようになったのです」
「それって……」
 風水師が突然口を開いた。ひどく言いづらそうに、言葉を続ける。
「城下で聞いた話じゃ、道光帝の在位期間はそう短くなかったと思ったんだが……その、道光帝の即位前ってのは、あんたは……」
「わたくしが大臣の囲い者となったのは、わたくしが八つの年でした……そうした幼い娘の前でしか、男としての力を示せぬ人間だったのです」
 風水師はそれ以上何も言わなかった。ただ、艾丹の肩に置かれた手に、力がこもった。
「陛下の運命を知らされたとき、わたくしは何とかして陛下の命を救う方法はないものかと思い悩みました。神獣となる定めをしりぞけ、人として生き長らえるようにと……そうすることが、陛下の御恩に応える最上のすべだと思っていたのです。しかし、桃児に捕らわれて、それこそがわたくしの迷い、心の闇であったことがわかりました。運命に逆らってはならなかったのです」
 桃児の創りだす闇の中に、あざやかに浮かび上がる光景。荒れ果てた城下、ここそこに重なりあう、いくつとも知れぬ民の骸。そしてその中に、まるで別世界のように麗々しく飾りたてられた閨房。房の扉が開き、中の光景が彼女の目を射る。淫蕩にふける一組の男女。男の顔は他ならぬ道光帝だ。そして女の顔は。
 周囲の荒廃に、聞くも耐えがたいおのれの嬌声がこだまする。どんなに固く目を閉ざしても、心の奥へじかに押し入ってくる、地獄絵図。
「あなたに救い出されてわたくしは、自分の使命が今日の天道式をとどこおりなく済ませることにあるのだと悟りました。そして、その天道式も終わりました。わたくしの使命も終わったのです」
 艾丹は長椅子にうずめていた顔を上げて、風水師を見つめた。
「どうか、わたくしをこのまま陛下のもとへゆかせて下さい」
 だが、風水師は黙って首を横にふった。艾丹はおもわず風水師の腕にすがりついた。
「お願いです!どうか、わたくしを哀れとお思い下さい……陛下のいないこの世になぞ、とても生きてはおられません」
「逃げちゃだめだ。……玄太は、逃げなかったぜ」
 玄太の名が、涙に溺れてゆこうとする彼女の心を呼び覚ました。艾丹ははっとして風水師の顔を見つめる。風水師は艾丹の視線を正面から受け止め、再び口を開いた。
「俺も最初にここへ来たとき、とても自分には見立てなんてできないと思った。もうじき父親になる男の命を奪うなんてさ。だから、あんたにゃ悪いけど、もし皇帝が見立てを受けることで玄太が神獣にならなくて済むなら、無理やりにでも皇帝を見立てて、玄太は逃がしてやろうと思ってたんだ。だけど、玄太は逃げなかった」
 玄太。見立てを恐れる道光帝を助け、ともに神獣となる定めを背負った男。
「彼は、神獣となる運命を受け入れた。けどそれは、運命に流されたわけじゃない。自分の意志で、運命を受け入れ、神獣となることを決意したんだ。その勇気が、宿命を恐れる道光帝の心を動かした。神獣となった玄太が、皇帝の心に自分と同じ勇気を呼び起こしたんだ。今日の天道式を成功させたのは、俺の力じゃない。玄太と道光帝の勇気さ。俺はただ、訳もわからずに儀式をとりもったに過ぎない。運命に流されていたのは、俺のほうなんだ」
 いつしか、話し続ける風水師の瞳にうっすらと涙が浮かんでいた。艾丹は、魅入られたように彼の顔を見つめつづけた。
「玄太と道光帝は、命を捨てたんじゃない。俺たちに……俺と、この国に残された人々に命を託していったんだ。俺たちは、その命を受けついでいかなきゃならない。あんたが自分の命を捨ててしまったら、せっかく託された命が無駄になってしまう」
「わたくしは……どうすればよいのですか」
 艾丹は、思わず尋ねていた。風水師は静かな、だが力強い声で答えた。
「伝えるんだ、彼らの勇気を。この国に生きる人たちに、二人がいかにして運命を受け入れたのかを伝えていくんだ。そして、一人一人に、彼らと同じ勇気を持てと教えるんだ。邪気は人の心の闇にとりつく。せっかく神獣の守りを得ても、人々が心に迷いを持っていたのでは、いつかこの国は邪気にとりつかれてしまう」
 風水師は両手を艾丹の肩に置いて、彼女の瞳をのぞきこんだ。
「できるよな」
「……はい」
 艾丹が答えると、風水師は微笑した。だが、そのために彼の瞳にたまっていた涙が目尻からこぼれおちた。風水師はあわてて拳で目をぬぐうと、照れ臭そうに下を向いて、なんだか偉そうなこと言っちまったなあ、とつぶやいた。
 艾丹は微笑して首を振った。桃児に捕らわれたときの絶望や、天道式が終わった後の虚無感は、彼と言葉をかわすうちにいつしか浄化されていた。
 その時、ばさばさと音をたてて、黒い影が部屋の中に飛びこんできた。影は卓子の上に舞い降りると金属製の大きな鷹の姿をとり、羽をひろげて素頓狂な声をはりあげた。
「おい、なにをぐずぐずしておる!天道式は終わったのだな?もちろんだ!だったら早くわしのもとへ来るのだ。急がないと、君を元の時代へ戻せなくなってしまうぞ!」
 風水師はあっけにとられた表情で、鷹をながめた。
「何だい、ありゃあ」
「大極殿の、陰陽師が作った鷹のからくりですわ……わたくしも見るのは初めてですが、この声は陰陽師に間違いありません」
「……そんな気がしたぜ。何だいあのおっさん、先祖代々からぜんぜん変わってないんじゃねえか」
 風水師はあきれたように首を振る。鷹はなおもわめきたてた。
「何をしておる、君!早く来ないと、渾天儀の目盛りが合わせきれなくなってしまう。元の時代に戻れなくなって、この時代で余生を送る羽目になっても知らんぞ!」
「わかったよ、今行くって!まったく、感傷にひたる暇もねえや」
 風水師は肩をすくめて立ち上がった。彼の言葉が伝わったのか、鷹は再び宙に舞い上がり、開いた扉から外へはばたいていった。
「やれやれ、残りの見立てさえなきゃあ、こんな美人もいることだし、この時代で暮らしたって、俺は一向にかまわねえんだけどなあ」
 風水師はそう言って、ちらりと艾丹のほうを見やった。いつのまにか、先ほどまでの、おだやかだがどこか逆らいがたい力強さを感じさせる表情はすっかりなりをひそめ、かわりに、まるでやんちゃ坊主のような愛嬌のある瞳がくるくると動いている。艾丹はおもわず顔をほころばせた。
 これがこの男の、人としての素顔なのだろうか。彼もまた、風水師としての宿命がなければ、こんなあどけない瞳のまま、平穏のうちに一生を送ることができたのだろう。だが運命は、彼に過酷な役割を強いた。神獣の宿命を負った者たちの、人としての生を終えさせるという、常の者ならば逃げ出したくなるような重いさだめ。だが彼は、そのさだめを恐れず、自分の手で見立てた者たちの命を背負って生きてゆこうとしているのだ。
 風水師は床に落ちた小刀を拾い上げ、艾丹に手渡した。艾丹はそれを元通り鞘におさめると、抱くようにして自分の胸にそっと押しあてた。
「大事な物だったのか……乱暴に扱っちまって、悪かったな」
「陛下より下された物です。この国では、王に仕える女官は、二君に仕えることを潔しとしません。中でも王のお側にはべる者たちは、こうした刀を常にたずさえ、万一王の身に事あるときは、みずから喉を突き、王とともに葬られることを望むのです」
「そうだったのか……でも、あんたは……」
「わかっております。もう二度と、あのような真似はいたしません」
「そういえば……見立てのときに、光が見えたよ。その刀の飾り石みたいな、青い、きれいな光だった」
 風水師は刀の柄を指さした。
「……きっと、道光帝があんたを守ってくれるさ」
「はい……」
 艾丹は、一層強く小刀を抱きしめた。柄の水晶が、時を越えてあの日の肌のぬくもりを彼女の胸によみがえらせた。
 風水師は片手をあげた。
「じゃあ、元気で。それと、玄太のかみさんと子供のこと……」
「わかりました。あの方たちにも、不自由な思いはさせません」
「頼むぜ」
 風水師はそう言うと、きびすを返して歩きはじめた。艾丹は顔を上げて、彼の背中にむかって声をかけた。
「どうか、ご無事で」
 風水師はこちらを振りかえり、微笑した。
「ああ、有難う」
 そしてそのまま、房の外へと姿を消した。
 艾丹はしばらくの間、風水師の出ていった扉を見つめていた。やがて彼女は立ち上がり、抱いていた小刀をそっと卓子の上に置いた。
 外ではいつしか、空を覆う雲が晴れはじめていた。窓からさしこむ光を受けて水晶がきらりと輝いた。


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