ウロボロス・パラドクス

望月 瞳子


 人が金に換えられちまうご時世だよ。物を金に換えて、どこが悪いのさ。
 そんな台詞を吐いて去っていった女がいた。もう、ずいぶん前の話だ。

 蛇の指輪を探して欲しい、と気功師は言った。
「ウロボロス……自分の尻尾を呑みこもうとしている蛇をかたどった、銀の指輪だ。女物だというから、サイズはそう大きくはないだろう」
「蛇ってまさか、スネークがらみじゃないだろうね。あんまり剣呑なとこへ首を突っ込むのは御免だよ」
 気功師のウェイは、影でスネークに対抗するレジスタンス組織を率いている。こちらとてスネークには随分窮屈な思いをさせられているから、協力するにやぶさかではないが、かといって無条件で頼りにされても困る。李弘の返答に、ウェイは案の定困ったような表情になった。
「直接的には、奴らとは無関係のはずだ。少なくとも、貴方に迷惑はかけないつもりではいるのだが」
 直接的には、ということは、間接的には無関係ではないということだ。やれやれ。
 ウェイが探すものといえば、相場は決まっている。鬼律になりかけの、あるいはなる寸前の古い物ども。なってしまえば、邪気を祓って物に戻すことは、風水師でもなければ無理な相談だ。だから、何とかその前にくい止めて、少しでも気の歪みを抑えようという心積もりなのだろう。
 そうした物の元の持ち主は大抵、あまり幸福な暮らしを送ってはいない。そうでなければ、物に念などこもりはしない。その不幸さ加減に、スネークが一枚かんでいる、といったところか。
「まあ、気にはかけておくさ。いつもの通り、手に入ったらメールで知らせる。それでいいかね?」
「有難う。恩にきるよ」
 ウェイはあからさまにほっとした表情を見せて、帰って行った。その後ろ姿を見送って、李弘はため息をつく。
 実を言えば、心当たりがなくもない。といっても、今その指輪がある場所を知っているわけではないが、かつてその指輪があった場所ならば覚えがある。どうやら、あの時案じていた通りの展開になっているらしい。後悔先に立たず。
 店のカウンターの下に目を落とす。そこには、朱雀の鏡がしまいこまれている。昔のものならいざしらず、この時代のものを探すのにこれを使うとろくな目に遭わないのだが、背に腹は代えられまい。
 李弘は店先に「休憩中」の札を出すと、朱雀の鏡を手に店の奥へと向かった。

 この街は何年たっても変わり映えがしないと思っていたが、こうして時をさかのぼってみれば、やはり空気が違うものだ。現在のほうが明らかに、気の淀みは濃い。時を重ねると共に、邪気も積み重なってきているということか。
 雑然としたたたずまいだけは変わらぬフロントの路地を抜け、自分の店の前へ出ようとしてあやうく思いとどまる。朱雀の鏡によってたどりついた時点が正確ならば、このとき《自分》は店にいて応対していたはずだ。これからやろうとしていることを考えると、過去の自分と顔をあわせるのはどうも具合がよろしくない。積まれた荷物の陰に身を隠して、李弘はそっと店先の様子をうかがった。
「人が金に換えられちまうご時世だよ。物を金に換えて、どこが悪いのさ」
 女の声が聞こえてきた。《自分》の声がそれに応えて何か言っている。いや、聞かなくとも判る。物を金に換えるなぞ、私のポリシーに反する。他ならぬ《自分》の言った台詞だ。
 女は、働き口を見つけたと大金をよこしたきり消息を絶った弟の行方を追って、この街に辿りついていた。ことによると、陽界から迷い込んできていたのかもしれない。慣れない街で、あちこち振り回され、紙紮を使い果たし、どうにもならなくなって李弘の店へと転がり込んできたのだ。余所者に向けられる排他的な視線をはね退けようとしているのか、口調は蓮っ葉で、態度も大きかったが、その裏には仔猫のように怯えた心が感じられた。
 やがて、もういいよ、という吐き捨てるような女の声が聞こえ、足音が遠ざかって行った。それを見送る過去の《自分》はまだ店頭から動こうとしない。李弘はなおも辛抱強く物陰に潜んで、その場が無人になるのを待った。
 ようやく過去の《自分》が店の奥へ引っ込むと、李弘は足音を忍ばせて無人となった店内に滑り込んだ。店の金は、今も使っている手提げ金庫の中に納まっているはずだ。腰に下げた合鍵を金庫の鍵穴に差し込むと、当時買い換えたばかりだったその金庫は、蝶番が嫌な音をたてることもなく開いた。戻ったら今使っているあれに油を差してやるか、などと頭の隅で考えながら、中の金を数える。ありがたいことに、十枚ごとに分けられた紙紮の束がいくつか入っていた。二束抜き取って、あとは鍵をかけて元の場所に戻す。空き巣のようだが、元はといえば自分の店だ。とやかく言われる筋合いはない。
 女を探すのは造作もなかった。龍城飯店の裏手に、疲れ果てたような顔をして座り込んでいる。近づくと、一瞬すがるような視線をこちらに向け、それからすぐに、相手が先刻自分の頼みをすげなく断った相手であることに気がついて口を尖らせた。
「何だい、もうアンタなんかに用はないよ」
 その悪態には答えず、李弘はいかにも周囲を憚るように視線を巡らせてから、女のほうへかがみこんで小声で言った。
「あんたが出て行ったあとで、いやな噂を聞いたんだよ。双子師どもがこの界隈で人を探してるらしい。……ああ、心配しなくていい。探してるのは小さな子供だというから、あんたや弟さんのことじゃなさそうだ。ただ、下手にうろうろしてると、奴らに目をつけられないとも限らないからね」
 双子師の名を聞いた途端、女の顔に脅えがはしった。李弘は身をすくませている女の手に、店から持ってきた紙紮の束を滑り込ませた。
「二千紙紮だ。これだけあれば十分だろう。奴らに見つからんうちに、ここを出たほうがいい」
「いいの……?」
 女の目が、ふたたび縋るような色を帯びる。
「私が断ったせいでスネークに連れてかれた奴が出たなんて、目覚めが悪いからね。そこの路地から西城路へ抜けられたはずだ。しばらくフロントには近づかないほうがいいだろう」
「……ありがとう!アンタ、思ったよりいい人ね。……あ、いけない、これ」
 女は懐から小さな箱を取り出した。指輪ケースだ。受け取って開けてみると、中には細身の銀の指輪が収まっている。よく目を凝らせば、その指輪が蛇をかたどっているのがわかる。自分の尻尾をくわえた蛇。
 まさしく、ウェイが探していたものだ。
「ああ、確かに預かったよ。……ただし、今度だけ特別だ。次からは、何を持ってきても金に換えるのはご免だよ」
「ありがと、おじさん。あとで余裕ができたら返しに来るからね」
 女は、さっきまでとは別人のように、生き生きとした様子で立ち上がった。李弘に向かってぺこりと頭を下げると、すぐに身をひるがえし、西城路への入口へと駆けて行った。
「……やれやれ、こんなことは柄じゃないんだが」
 李弘はそうつぶやくと、指輪ケースを懐にしっかりとしまい、代わりに朱雀の鏡を取り出した。

「何の話だったかな」
 ウェイはきょとんとした顔で聞き返した。空とぼけている様子はない。本気で思い当たる節がないようだ。もとより、小額の謝礼をけちって嘘をつくような男ではない。
 現在へと戻り、ウェイにメールを書こうと端末を借りに龍城飯店へ向かっている途中で、当の本人に出くわした。これ幸いと手に入れてきた指輪を見せたが、ウェイは不思議そうに首をかしげるばかりだ。
「おや、あんたに頼まれたんだと思ったんだが……誰かほかのやつの頼みと間違えたかな。私の勘違いだろう。呼び止めて悪かったね」
 李弘はそれ以上追及せず、ウェイに手をあげてから来た道を戻り始めた。メールを出そうとしている相手の様子がああである以上、店に帰って、来ない客を待つより他にやることはない。
 こんなことになるんじゃないかとは思っていた。過去に行って女に金を渡し、指輪を手に入れる。そのことにより、指輪に念がこもることはなくなり、この指輪は鬼律化の運命をまぬがれた。だから、ウェイがこの指輪の有り様に頭を悩ませることも、その回収を李弘に依頼してくるはずもないというわけだ。だったら自分が指輪を回収しにいくこともなく、指輪はその運命に従って鬼律となり……などと考え始めてはいけない。よくあるタイム・パラドクスだ。
 やれやれ、またただ働きだ。手元から金を持っていかず、向こうで調達するようにしておいてよかった。ウェイから謝礼をもらえたら、むこうで「拝借」した分を戻しにいこうと思っていたが、これではどうしようもない。過去の《自分》に苦労をかけるのも心苦しいが、まあ数ヶ月ほどまじめにやっていれば取り返せる額だろう。
 それにしても、あの女はその後どうしただろう。無事に弟と再会できたのか。指輪が鬼律となることはくい止められたが、何か別のものにその無念な思いをこもらせていた、などということがなかったとも言い切れない。まあ、その辺に関しては、自分の手の及ぶ範囲ではないのだが。
 時の輪は閉じてしまった。自分の尻尾をくわえた蛇のごとく。ただ、時を越えた自分とこの指輪だけがその輪から取り残され、根無し草のように漂っている。
 だが、行き場を失ってしまった物にも、居場所は必要だ。
 李弘は、持ち帰った指輪ケースを店の陳列棚の片隅にそっと収めると、今度こそ休憩を取るために、店の奥へと消えていった。